「嫌だけど、視野が広がる」──高齢の親の通院から見えた現代人の生き方

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先日、80代になる母ハナ子さんを近くの総合病院に連れて行きました。
正直なところ、気が重かったのが本音です。待ち時間は長いし、費用も時間もかかる。
しかも、病院の付き添いなんて気楽な仕事ではありません。
けれど、帰ってきたとき、私はふと「これは社会観察になっているな」と気づきました。
それは、普段パソコンの前に座りっぱなしで作業している自分にとって、大きな気づきでした。
家から出ない生活が当たり前になっていく時代
今や在宅ワークは珍しくなくなりました。
私もその例にもれず、日々自宅のデスクで作業をしています。効率的だし、通勤もない。
一見理想的な生活です。
でもその裏で、私たちは“現実の社会”から距離を置いていることに気づきにくくなっています。
コンビニも通販も、あらゆる手続きもネットで完結する時代。
外に出る「必要」がないのです。
その結果どうなるか。
他者の存在、社会のリアル、現実の「老い」や「病」や「働く人々」の姿に、疎くなっていくのです。
総合病院という“現代の交差点”
病院という場所は、ある意味で社会の縮図です。
高齢者、働き盛りのサラリーマン、小さな子どもを連れた母親、外国人の患者まで、
多様な人々が同じ空間に集います。
付き添いとして待合室に座っていると、そこには人の「苦しみ」や「不安」だけでなく、
「人間らしさ」や「つながり」も見えてきます。
何気ない看護師さんの声かけや、受付スタッフの丁寧な応対、
高齢者同士の「この先生、優しいわよ」といった会話──
どれもネットでは感じられない、生のコミュニケーションです。
面倒だからこそ得られる“副産物”
たしかに、親を病院に連れて行くのは面倒です。
診察まで何時間も待たされ、ぐったりと疲れて帰ってきます。
それでも、家にこもっていたら決して得られない“視野の広がり”があります。
それは、自分自身が病気になったときに「ここに来ればいいんだ」という安心感でもあり、
同じように支える側の立場にある人々への共感でもあります。
社会にはこんなにも多様な人がいて、それぞれの事情を抱えて生きているのだという気づきは、
人間としての深みを増してくれるように思うのです。
“効率化”の裏にあるリスク
現代社会は、とにかく効率を追求する方向に進んでいます。
宅配、リモート、セルフレジ、AI──どれも便利なものばかり。
しかしそれらの恩恵を受けるほど、「人と人が顔を合わせる」という体験が減っていきます。
たとえば、スーパーで顔を見て「いらっしゃいませ」と言われるだけでも、
人はちょっと元気になります。
でもセルフレジでは、無表情の機械とだけ向き合い、
最後には「ありがとうございました」もなく立ち去ることになる。
それが日常になると、人との関わりはますます“異質”なものになり、
病院での「人の多さ」や「待つという行為」が耐えがたいものに感じられてしまうのかもしれません。
“人と交わる面倒さ”を取り戻す価値
病院に行くことがすべての人にとっていいこと、とは言いません。
ただ、偶然や必要によって生じる「人と交わる面倒な時間」には、
今の私たちが意識的に取り戻すべき価値があると思います。
自宅で完結する生活は確かに快適です。
でも、だからこそ“あえて面倒に巻き込まれること”が、私たちの人間性を保つ鍵になるのではないか。
病院の待合室という不自由な空間で過ごす時間は、
ある意味で“自分を現実に接続し直す”時間でもあるのです。
最後に──“嫌なこと”がくれる大切なヒント
ハナ子さんの診察が終わり、私は疲れきった顔で車に乗り込みました。
けれど同時に「行ってよかったな」と思いました。
あの場に行かなければ、知り得なかったことがたくさんあったからです。
嫌なこと、面倒なことには、たいてい“副産物”があります。
そしてその副産物は、効率的な日常の中では絶対に得られない種類の「気づき」です。
人生の豊かさとは、たぶんそういう“非効率な気づき”の積み重ねの中にあるのかもしれません。
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