【関西からレポート】クマ出没と「駆除反対」の叫び。一体何が起きているのか?私たちに突きつけられた、自然との境界線。

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のどかな田舎暮らし。鳥のさえずりで目を覚まし、窓の外には緑が広がる。都会の喧騒から離れ、自然と共に生きる…。そんな理想を抱いて関西の片田舎に住む私が、最近、毎日のように耳にする言葉があります。

「〇〇地区で、クマの目撃情報がありました。ご注意ください」

防災無線のスピーカーから流れる、少し緊張感のある声。最初は「珍しいな」くらいに思っていたのが、今や週に数回は聞く「日常」になりつつあります。小学校からは「集団下校へのご協力をお願いします」という連絡網が回り、近所のおじいさんは「畑の柿がやられたわ…」と肩を落とす。正直、怖いです。夕方の散歩は控え、ゴミ出しの時間も気にするようになりました。

そんな中、もう一つ、私の心をざわつかせる話を聞きました。それは、いざクマが捕獲・駆除された際に、行政に「なぜ殺すんだ!」「かわいそうじゃないか!」というクレームの電話が殺到するというのです。

怖い。でも、かわいそう。
この二つの感情の間で、私たちの社会は大きく揺れています。一体、何が起きているのでしょうか?これは単なる動物愛護の問題なのでしょうか?

今日は、この複雑で、誰もが当事者になりうる「クマ問題」の深層を、皆さんと一緒に掘り下げてみたいと思います。

第1章:なぜ、クマは私たちのすぐそばにいるのか?

「昔はこんなに里に出てくることなんてなかった」と、地元の古老は口を揃えます。では、なぜ今、クマたちは人里を目指すのでしょうか。原因は一つではなく、いくつもの要因が複雑に絡み合っていました。

1. 山が「食べられない森」になっている

クマの主食は、秋に実るブナやミズナラ、コナラといった、いわゆる「ドングリ」です。しかし、近年の気候変動による夏の猛暑や干ばつで、このドングリが全国的に凶作となる年が増えています。お腹を空かせたクマは、生きるために餌を探し、山を下りるしかありません。

さらに、戦後に植えられたスギやヒノキの人工林の問題も深刻です。これらの針葉樹林は、木材としては有用ですが、クマの餌となる実をつけません。手入れの行き届かない暗い人工林が増え、クマが餌を得られる広葉樹の森が減ってしまったのです。彼らにとって、故郷であるはずの山が「食べ物のない砂漠」に変わりつつあるのかもしれません。

2. 人と自然の「境界線」が曖昧になった

かつての日本には、人の住む「里」と、動物たちの住む「奥山」の間に、「里山」という緩衝地帯(バッファゾーン)がありました。人々が薪や炭を採ったり、山菜を採ったりと、適度に人の手が入ることで、里山は明るく見通しの良い場所でした。クマのような臆病な動物は、こうした人の気配がする場所を避けていたのです。

しかし、過疎化と高齢化が進んだ今、多くの里山は荒れ放題です。耕作放棄地には雑草が生い茂り、クマが身を隠すには絶好の場所と化しています。さらに、収穫されずに放置された柿や栗、野菜クズなどは、クマにとって非常に魅力的で栄養価の高いごちそうです。

「苦労して山奥でドングリを探すより、人里に行けば簡単にご馳走にありつける」

そう学習してしまったクマがいても、何ら不思議ではありません。私たちが気づかぬうちに、人とクマの境界線は、驚くほど曖昧になってしまっていたのです。

第2章:「かわいそう」と「こわい」の断絶。なぜクレームは起きるのか?

さて、本題です。人里に出没し、時には人に危害を加える可能性のあるクマが駆除された際、なぜ「かわいそう」「殺すな」というクレームが殺到するのでしょうか。ここには、現代社会が抱える根深い「断絶」が見え隠れします。

【みんなの声:駆除やむなし派】

「自分の子どもが通学路でクマに遭遇したらって考えたことある?綺麗事じゃないんだよ!人の命が一番だろ!」(30代・子育て中の母親)

「丹精込めて育てた野菜や果物を一晩でめちゃくちゃにされる農家の気持ちが分かるか?生活がかかってるんだ。クマの命も大事だが、こっちの生活も大事だ」(60代・農家)

「一度人の食べ物の味を覚えたクマは、絶対にまた来る。追い払っても無駄。人に危害を加える前に駆除するのは、被害を未然に防ぐための苦渋の決断なんだ」(50代・猟友会メンバー)

彼らの声は、恐怖と実害に根差した、切実な叫びです。クマとの距離が物理的に近い人々にとって、それは「キャラクター」ではなく、命と生活を脅かす「現実の脅威」なのです。

【みんなの声:駆除反対派】

「理由はどうあれ、命を奪うなんてひどすぎる。クマは何も悪くないじゃないか!」(20代・学生)

「そもそも山を開発してクマの住処を奪ったのは人間。原因を作った側が、一方的に命を奪う権利なんてないはず」(40代・会社員)

「殺さなくても、麻酔銃で眠らせて、山の奥に返してあげればいいじゃない。なぜその選択肢を取らないの?」(50代・主婦)

こちらの声もまた、生命を尊ぶという、人間として自然な感情から生まれています。特に、都市部に住み、クマの直接的な脅威を感じる機会が少ない人々にとっては、駆除は「一方的な暴力」に映りがちです。

この対立の根源にあるもの

この二つの意見は、どちらが正しくてどちらが間違っている、という単純な話ではありません。問題の根源は、両者の間に横たわる**「距離感」と「情報量」のギャップ**にあります。

  • 物理的・心理的な距離感のギャップ:被害が現実のものとして存在する地域住民と、ニュースや映像を通してクマに触れる都市住民とでは、クマに対する認識が全く異なります。前者は「脅威」、後者は「自然の象徴」「かわいい動物」というイメージが先行しやすいのです。
  • 情報量のギャップ:「麻酔銃で山に返せばいい」という意見は、一見、理想的な解決策に思えます。しかし、現実はそう簡単ではありません。麻酔銃を扱える専門家は非常に少なく、捕獲には多大なコストと危険が伴います。そして何より、人里の味を覚えたクマを奥山に放しても、再び人里に戻ってきてしまう「再犯率」が非常に高いという厳しいデータがあります。こうした現場のリアルな情報が、十分に伝わっていないのです。

つまり、「かわいそう」という感情と「こわい」という感情は、どちらも本物です。しかし、その感情が生まれる背景にある現実認識が、あまりにも異なっている。これが、クレームという形で現れる対立の正体なのでしょう。

第3章:では、どうすればいいのか?共存への道筋を探る

感情的な対立を乗り越え、私たちが目指すべきはどこなのでしょうか。専門家たちは、対症療法としての「駆除」だけではなく、根本原因にアプローチする必要性を訴えています。

1. ゾーニング(棲み分け)という考え方

最も重要なのが、人とクマの活動エリアを明確に分ける「ゾーニング」です。

  • コア・ゾーン(核心地域):クマが安心して暮らせる奥山。人間は極力立ち入らない。
  • バッファ・ゾーン(緩衝地帯):里山など。草刈りや下枝の伐採を行い、見通しを良くする。クマが「ここは隠れられない、居心地が悪い」と感じるように管理する。
  • 人間エリア(生活圏):集落や市街地。クマの餌となるものを徹底的に管理する(ゴミ、放置果樹など)。

この境界線を地域全体で意識し、守っていくことが、無用な遭遇を避ける第一歩となります。

2. クマに「学習」させる

人里に出てきても、良いことが何もないとクマに学んでもらうことも重要です。「ベアドッグ」と呼ばれる特殊な訓練を受けた犬や、大きな音、ゴム弾などを使って「人間の近くは危険で不快な場所だ」と徹底的に教え込む「学習放獣」という取り組みも始まっています。これは、ただ山に返すのではなく、「教育」して返すという考え方です。

3. 私たち一人ひとりができること

行政や専門家任せにするだけでなく、私たち自身ができることもたくさんあります。

  • 家の周りの環境整備:庭の柿や栗は早めに収穫する。家の外に生ゴミを放置しない。物置などを整理し、クマが隠れやすい場所をなくす。
  • 正しい知識を持つ:山や畑に出かける際は、クマ鈴やラジオを携帯し、自分の存在を知らせる。もし遭遇してしまった場合の対処法(慌てず、騒がず、背を向けずにゆっくり後ずさるなど)を知っておく。
  • 地域で協力する:地域の草刈り活動に参加する。クマの目撃情報を共有し、注意を呼びかけ合う。

これらは地味なことかもしれませんが、一つひとつの積み重ねが、クマを人里に引き寄せないための堅固な「壁」となるのです。

まとめ:問われているのは、私たちの「自然との向き合い方」

関西の片田舎で始まった私の素朴な疑問は、最終的に、現代に生きる私たち全員に突きつけられた、非常に大きく、そして重い問いへと繋がりました。

「かわいそう」という感情は、決して無駄ではありません。それは、私たちが他の生命を思いやる心を持っている証です。
「こわい」という感情も、当然のものです。それは、自分の命や暮らしを守ろうとする本能です。

問題は、これらの感情をぶつけ合うこと。なぜ、クマが私たちのすぐそばまで来なければならなかったのか。その根本原因に目を向け、正しい知識を共有し、それぞれの立場で何ができるかを考えること。

都市に住む人は、現場の恐怖と切実さに想像力を働かせる。
田舎に住む人は、なぜそうした事態が起きているのか、その背景にある環境問題にも目を向ける。
そして、行政や専門家は、両者の橋渡しをしながら、科学的根拠に基づいた長期的な対策を進めていく。

クマ問題は、クマだけの問題ではありません。それは、私たちがこれまでどのように自然と関わり、そしてこれからどのように向き合っていくべきなのかを映し出す「鏡」です。